これは Libist のWeb制作サンプルです(架空の味噌醸造元「YAMASHIRO HONTEN」・実在の団体ではありません)Web制作を見る →
Our Story

創業から、いまの桶まで。

山城本店がどのように始まり、何を変え、何を変えなかったのか。蔵に伝わる話をたどっていきます。

物語
創業期 — The Beginning

麹屋が、桶をひとつ据えたところから。

山城本店の始まりは、麹づくりを生業にしていた初代が、村はずれの小さな蔵に杉樽をひとつ据えたことに遡ります。当時、周辺の農家はそれぞれの家で味噌を仕込んでいましたが、麹づくりだけは手間と技術が要るため、初代のもとに麹を求めて人が集まるようになりました。

「麹を売るだけでなく、味噌そのものを仕込んで届けてはどうか」——そう考えた初代が最初の杉樽を据えたのが、山城本店の実質的な始まりだと蔵には伝わっています。

麹屋のままでいる方が、実は気楽だったはずです。それでも桶を据えたのは、麹を渡した先でどんな味噌になるのかを、自分の目で確かめたかったからだと聞いています。

初代の言葉として蔵に伝わる話
二代目の頃

桶の数を、あえて増やさない。

需要が増えるなかで桶を大幅に増やす案も出ましたが、二代目は「目の届く数」にこだわり、桶の数よりも仕込みの精度を優先する方針を定めました。この判断が、今も蔵の規模観として受け継がれています。

断ったのは、断る自信があったからではありません。桶を増やして目が届かなくなった味噌を、お客様に出す方が怖かった。それだけです。

二代目の言葉として蔵に伝わる話
戦後の混乱期

原料が手に入らない時期を、
質を落とさず越える。

大豆の調達が難しい時期がありましたが、代用原料での増量には踏み切らず、仕込みの規模を一時的に縮小することで品質を守りました。この時期の判断が、現在の「原料は顔が見えるものだけ」という方針の原点になっています。

正直、量を減らすのは怖かったと聞いています。それでも、原料をごまかした味噌を桶に仕込むことだけは、どうしてもできなかったそうです。

当時の蔵人の言葉として蔵に伝わる話
高度成長期

大量生産の誘いを、断る。

大手からタンク仕込みへの切り替えと大口取引の打診がありましたが、杉樽での仕込みを維持する判断をしました。取引規模は大きくなりませんでしたが、蔵の製法はそのまま残りました。

タンクにすれば、断る理由はもうなかったはずです。それでも樽を選んだのは、味の話というより「うちの蔵はこうやってきた」という筋を通したかったからだと思います。

当時の当主の言葉として蔵に伝わる話
現在

変わらない製法を、
伝える仕事も始める。

現当主のもとで、蔵の仕込みを続けながら、直営店・オンラインショップでの直接販売を開始しました。製法や考え方を直接お客様に伝える機会を増やしています。

これまでは、味噌の味だけで判断してもらえればいいと思っていました。ただ最近は、なぜこの製法を続けているのかを直接お伝えする方が、結局は誠実なんじゃないかと考えるようになりました。

四代目蔵元・談
このものがたりから生まれた味噌へ
Craftsmanship

なぜ、杉樽と寒仕込みなのか

桶を替えれば、味も変わる。だから、桶は替えない。

杉樽には、木そのものに棲みつく微生物と、わずかな呼吸(通気性)があります。ステンレスタンクのような均一な環境管理はできませんが、その「均一でなさ」が味噌の角を丸くすると、蔵では考えています。

寒仕込みも同様です。気温が低い時期に仕込むことで、雑菌の繁殖を抑えながらゆっくりと発酵を進めることができます。時間はかかりますが、急いだ発酵では出ない深みがあります。

杜氏より樽を替えない理由を聞かれるたびに、正直うまく説明できていない気がします。ただ、樽を替えた年の味噌だけは、なぜか自分の中でしっくりこなかった。それだけは確かです。